従来は「書かれたもの」を意味する「歴史」という言葉と概念が、近年その範囲を拡張させつつある。とりわけ注目に値するのは歴史学と考古学との境界がシームレスになりつつあるという点である。歴史学はテキスト、つまり文献を扱い、考古学はモノ、つまり発掘される遺物を扱うという点にそれぞれのアイデンティティがあったわけだが、この領域が曖昧なものになりつつあるのだ。 それは例えば、考古学者である山田康弘の近著 『縄文時代の歴史』 (2019、講談社現代新書)というタイトルにも如実に表れている。縄文時代には文字はないため、これはかつてならば考えられない表現である。そしてこれは単なるレトリックでもなければ広義のカジュアルな用法でもなく、人間が生きた記録そのものを意味する真っ当な「歴史」である。なぜこのような言辞がみられるようになったのだろうか。 こうした背景には、先史時代研究における科学技術の飛躍的な進歩がある。代表的な例を挙げれば、電子顕微鏡や放射性炭素年代測定器などのハイテク機器が応用されることで、花粉化石の分析や植物遺体の同定が可能となり、数千年前の石器時代の自然環境(気温や植生など)や生業(何を栽培し何を食べていたか)を復元し、かつその絶対年代をそれなりの精度で決定できるようになった。これによって、石器時代人の具体的な生活史の一部を実証的な水準で記述できるようになったのだ。 さらに、考古研究そのものの拡充があることは言うまでもない。例えば前述の山田は人類学的な知見を応用し、縄文時代の墓制、すなわち副葬品や葬制の実態から、当時存在していたと考えられる身分の階層性や母系制/父系制について論じている。文字資料なしにそこまでわかるのか!と思わず唸ってしまうほどである。 一方、歴史学は、とりわけ20世紀の アナール学派 の出現以降、従来の歴史記述が政治的な「事件史」や偉人などの「大人物史」に偏重して大多数の庶民の生活史をほとんど描いてこなかった点が批判されるようになった。つまり歴史学が扱ってきたテキスト(文献資料)は極めて観念性の強い代物であり、社会生活の実態を復元するためにはあまりに偏った情報資源であることが強く自覚されるに至ったのである。 こうした経緯により、歴史学も学際的な包括性を志向せざるを得なくなり、経済学や統計学、あるいは民俗学や人類学などの手法も積極的...
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